「第2章 世界を体験する」に関するトークページ
rashita.iconこの章についての雑談などを。
rashita.iconこの章を読んでいるとはっきりとわかりますが、本書はともかく話があっちこっちに飛びますね。アウトラインがうまく整理されていない。だから読書メモを取るのも難しい。
rashita.icon一方でだからこと、整理すると切り落とされてしまうような話題も言及されていて、それが本書に奥深さを感じる一因になっているとも思います。
TsutomuZ.icon > アウトラインがうまく整理されていない。だから読書メモを取るのも難しい。
皆さんがレジュメに要約を作れているのに、私は苦労しているのはなんでか?と思っていました。
他の本からの情報を加えてなんとかできそうです。
tks.iconよくわかります。要約だったら省くところに面白いと思える話が出てくる印象です。
たとえば、冒頭のシカゴの科学博物館の話は要約をするとしたら省きますが、この章で主張したいことはもっとも伝わる形で説明されていると感じます。
私が思うエッセイ的なものは、この部分(p47〜52)が近い気がします
rashita.iconいいださんのメモに「達人の直感は内省?」というフレーズがありました。
倉下の理解では、達人(達人と呼ばれるに至った人)の直感は、まず数多くの経験がありそれに対する内省が行われ、その結果が内面化して直感に反映されたもの。つまり、アップデートされた(あるいは言葉通りの意味で進化した)直感。
内省によって補正された直感、でもいい。
たとえばサーファーは直感的に波乗りをしていると思いますが(物理演算はしていないでしょう)、その直感は内省を経て鍛えられたものだと思います。
trained あるいは tunedな直感。
rashita.iconchoiyakiさんのメモで、
これはほんとそうで、自分で学んでる時も、新たな単元を教えてる時にも感じる。特に、三角関数や対数など、ある数を定義によって定めた時は、慣れ親しんだ文字や数から離れてしまうので、概念的背景をもたない状況になっており、そこを乗り越えることが困難な生徒が一定数出てきてしまう。骨の折れるところをどうするか、か。
という記述がありました。この「骨の折れるところをどうするか」が何かを教える人の一番の課題でしょう。
数学の場合は実体を持たず、定義だけで概念を成立させられるから余計にこの要素が強いですが、ノウハウのようなものであっても似た問題を抱えていると感じます。当人の中にメンタルモデルが存在しない行為は、そもそも理解してもらえない。
choiyaki.icon本を読んでいてなっかなか入ってこない時って、だいたいはこの、メンタルモデルが存在しないまま読み進めてるときのような気がします。イメージがつかない、書いてあることはわかっても具体的にどんなときのことか想像できてないというような。
rashita.iconyasumiさんのメモで、フロー体験の構造を自分で作ることができるのか、という疑問が提示されていました。
以下の特性を組み込む、という話です。
「目標やフォードバック、ルール、チャレンジ」
おそらくはできるでしょう。特に「目標、ルール、チャレンジ」は可能です。
フィードバックは他者が必要で、具体的な他人か、機械などの計測、あるいは自分で作る記録などを用いる必要があるでしょう。
扱いが難しいのはチャレンジで、そのときの自分の技術(スキル)よりも少し上のレベルを目指すことがチャレンジなのですが、「そのときの自分の技術」がどのレベルなのかがわかっていないと適切な設定ができません。
だいたいの場合無茶な設定をしてしまって、ハード・チャレンジングになり、フロー体験に至れない、ということはありそうです。
rashita.iconchoiyakiさんの以下は大きな問題提起ですね。
教師が教えるべきことをわかっているという前提の危うさと、学習に対する意欲と、エンタテイメントによって喚起される興味・感心との質の違い。この両者を仮に掛け合わせることができたとしても、それは果たして解決策になるのか。
教師が教えるべきことをわかっているのか。
rashita.icon二つ視点があるように思う。
一つは、教師は「教科の内容を知っている」(ゲーム製作者はそうではない)ということ。この捉え方なら特に問題はない。
もう一つは、教師が「教科の内容を知っている」というのは本当か、あるいはそれはどういうことか、という視点。
たとえば、教師は解の公式みたいなものを「知っている」として、ではそれが「教えるべきこと」とイコールなのかどうか。
興味の質的な違いはあるのか。
choiyaki.iconこれも、体験的な興味の抱きかたと、内省的な興味の抱きかたの違いな気がします。
ゴシップとかダラダラYouTubeとか。興味湧くから次々見てしまうけど、そこに深まりはない、広がりはない、というか。←体験的?
これはどういうことか?あれとの違いは何か?という類の興味は、内省的と言えそう?